1956-03-27 第24回国会 衆議院 本会議 第27号
昭和八年からは、みずから目下大宮夕刊新聞社の経営に当られたのでありますが、昭和十二年に大宮町町会議員に御当選になり、ここに初めてその長きにわたる政治生活の第一歩を踏み出されたのであります。次いで、昭和十五年には埼玉県会議員に当選され、引き続いて地方自治の発達と民生の福祉増進とに貢献せられたのであります。
昭和八年からは、みずから目下大宮夕刊新聞社の経営に当られたのでありますが、昭和十二年に大宮町町会議員に御当選になり、ここに初めてその長きにわたる政治生活の第一歩を踏み出されたのであります。次いで、昭和十五年には埼玉県会議員に当選され、引き続いて地方自治の発達と民生の福祉増進とに貢献せられたのであります。
それまでのものを私の方は新夕刊新聞社として受入れており、これが二千五百二十五万円、かようになつております。
午前十一時三十八分開議 出席委員 委員長 塚原 俊郎君 理事 高木 松吉君 理事 田渕 光一君 理事 中野 四郎君 天野 公義君 鍛冶 良作君 鈴木 仙八君 山中 貞則君 久保田鶴松君 山中日露史君 佐竹 新市君 矢尾喜三郎君 小林 信一君 委員外の出席者 証 人 (新夕刊新聞社
○塚原委員長 伊藤斗福君が、新夕刊新聞社の大株主になつたのを機会に、先ほど名前が出た三浦義一君、高源重吉君、あるいは児玉誉士夫君などに、あいさつとして千五百万の金を贈つたういこととを聞いておるのですが、こういうことはあつたのでしようか。
○塚原委員長 保全経済会は新夕刊新聞社に対して、今お述べになつたような資本金を出資したほかに、総額六千二十五万円に上る仮払金が支出されておりますが、これについて御説明を願います。
新夕刊新聞社のものにするということであつたのであります。それで倉藤さんに新夕刊新聞社の社主という言葉は使つておりません。大株主であるから、結局自分の会社だというふうなお考えがあつたのではないかと私は存じたおります。そのために金一封をお出しになつたものと考ます。
九月三十日現在の貸借対照表に掲げられた仮払金二億五千七百五万余円につきましては、その内訳明細の提出を求めたのでありますが、そのうち疑問とすべきものは、新夕刊新聞社に六千二十五万円、日本和紡株式会社、これは仏教保全経済会の大谷氏経営の会社であります。
それから昭和二十一年六月に中国新聞社の傍系社であります夕刊広島新聞社ができましたときに、中国新聞社より出向いたしまして、夕刊新聞社の社員となりました。それから昭和二十四年の十一月に、夕刊広島新聞社の経営困難の理由による、企業整備によりまして、解雇されました。越えまして昭和二十五年の八月より、広島市において行つております失業対策事業に就労して、今日に及んでおります。
調書によりますと、辻嘉六氏は昭和二十一年から二十二年十月までの間に、緑産業株式会社社長吉田彦太郎から三百万円、新夕刊新聞社社長高源重吉から百万円、熱海市の貿易商青木勇から百五十万円、旭工機株式会社、これは横浜にありますが、社長杉山嘉市から百万円、これと先ほどの中曽根幾太郎からの二百五十万円、会計九百万円受取つておるのでありますが、今明らかにされつつあるのは、中曽根幾太郎から受取りました二百五十万円だけでありまして